東北地方太平洋沖地震
久しぶりにお題について書こうかな。
自分の周りで起きたこと、思いを書きます。長くなったので追記。
- 3月11日(金)
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- そして外からはヘリの飛ぶ音と消防のサイレンの音が聞こえた。
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- 余震が1時間ほど続く。ずっと揺れている感じ。なので怖さと気持ち悪さがあった。
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- 内陸なので津波の心配はなかった。けれどラジオもテレビもない。携帯は混線し始め、段々とネット接続できなくなった。固定電話も繋がらない。
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- 電気が止まり、信号がつかないため国道は渋滞し始めたと郵便配達員さんから聞いた。
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- 水は止まらず、トイレには行ける。
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- パソコンも使えず、何も出来ずに棚から落ちた書類を戻したり、余震にビビる。
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- 16:40 電気がつかないので会社の中が暗くなる。本格的に暗くなる前に家に帰った。
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- 車で帰ると交差点に警官や消防の人が立ち、笛を吹きながら車を誘導していた。初めて見た。信号は真っ暗で渋滞していた。ガソリンスタンドは立ち入れ出来ないようにロープが張ってあった。コンビニも同様。看板はどこもついていない。ブロック塀が根元から倒れているのも見た。
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- 車のラジオで沿岸に津波が来たのを知った。「甚大、壊滅状態です。」と言っていた。壊滅?壊滅って何だよ。山の向こうで何が起こっているんだろう。不安になる。
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- 帰宅。実家に住む家族は全員無事。家も無事。一安心。アスファルト舗装に亀裂が入った。部屋に入ると物が散乱。片付ける気をなくした。
あららら…。どうせ誰も来ないからと片付けもしない部屋が更に散乱した。姿見の鏡は倒れ、机の上に置いていた書類は床に落下。足の踏み場がないとはこの事か、と苦笑いした。
床に落ちた書類のお陰で机の棚は何もない状態。小学生から使っている机。
本棚の中はすべて抜けた。上の段は余裕を持って入れていたので、すっぽり抜けたけど、下の段は無理矢理入れていたので一冊も抜けなかった。
ベッドの上にも物が散乱。枕の上の方に棚があったので、そこにCDとMD(コンバースの箱)を入れていた。そしたら枕元に落ちていた。ここで寝てたら頭に当たってたな。もうここには置かないと決めた。暗くなるまで片付けた。
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- 福島に住んでいる兄に連絡を取りたくても電話、メール共に出来ず。大丈夫だろうと家族皆が思っていたんだろうね、誰も暗い事は口に出さなかった。原発の見えるアパートに住んでいて、その近くに会社があると言っていた。きっと大丈夫。
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- 20:30 足の不自由な祖母を中心に、茶の間で集まって寝た。家は引き違いの襖やらアルミ窓の建てつけが悪く、揺れ始めるとカタカタと嫌な音が鳴る。揺れる度ビビっていた。枕元に懐中電灯とコートを置き、パジャマではなく普段の格好で寝た。何度も揺れた。ラジオからは死者50人と聞いた。
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- 22:30 小さな音でつけていたラジオから死者が100人と聞こえてきた。これ以上増えないで欲しいと願った。
- 3月12日(土)
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- 0:00頃 余震
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- 2:00頃 余震、この後も余震が続く。
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- 6:30頃 起床。寒い。カセットコンロでご飯を炊き、ご飯を食べた。
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- 8:30 出勤。昨日に続いて停電、電話は不通。会社に歩いてくる人がいたので、そういう人を会社で待っていた。会社は小さな工務店なので、故障や不具合の連絡があるかもしれなかった。けれど、その後誰も来ない。
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- 18:30 夕飯。ガスをつけてみるとニオイがしなかったのでガスを使ってご飯を炊き、野菜炒めを作った。余震がある度にストーブを消す。死者は200人を超えていた。電気は懐中電灯のみ。
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- 20:00 就寝。
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- 22:30 緊急地震速報で飛び起きた。すると電気が復旧している事に気付いた。このとき、福島に住んでいた兄から「無事」とのメールが来た。一安心して寝た。
- 3月13日(日)
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- 0:00頃 余震
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- 2:00頃 余震
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- 6:30頃 起床。やっぱり寒い。窓ガラスが結露して凍っていた。電気は通っていた。「便座が温かいよ!」母が喜んで報告してきた。マジすか!これだけで嬉しかった。
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- 14:10 携帯のメール、ネット回復。いつも通りに出来た。なかなか繋げない事からも解消。宮城の友達とも連絡が取れ、お互い無事で良かった。
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- 21:00 風呂。地震後、初めての風呂。電気がなけりゃ風呂も焚けなかった。入っている間も余震がくる。ササっとあがった。
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- 22:00 電気が回復したので各部屋で寝た。街灯がついていた。それだけでも安心した。紐を引っ張れば電気が付く。コンセントを差せば充電できる。こんなに幸せな事なのかと思った。この嬉しさを忘れないと思った。相変わらず余震が続いて、ラジオは安否確認の名前と避難先を言っている。いつもの放送はない。
- 3月14日(月)
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- 通勤するとき、すごい渋滞だった。何事かと思ったら2キロ先にある、ガソリンスタンドに入る車の列が出来ていた。全く進まないので、迂回しようと別の道を通ったら、そこでも別のスタンド渋滞に巻き込まれ、結局遅刻しちゃった。
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- スーパーの店先に物を並べて販売していると母から聞いた。通り道のコンビニは相変わらず暗い。
- 3月15日(火)
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- 昨日の事もあって、余裕を持って出たけれど、また渋滞。家の前から道路に入れなかったので急遽チャリで出勤。急いで漕いだけど、また遅刻…。頭をかきながら「テヘ☆」と出勤できる空気じゃなかったので、それはなし。息を切らして、「す、すいません…」と髪も乱しながら出社。本当にすみません。
- 3月18日(金)
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- ガソリン不足から物流が止まり、社員の車からもガソリンがなくなり始めたので、この日から自宅待機になった。チャリで近くのスーパーに行ってみた。店内は照明を所々でつけ、音楽はなし。天井板が外れ、立ち入り禁止の場所もあった。
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- あった物:野菜(高いけど)、花(彼岸入日だったので)、こんにゃく、冷凍食品、乾物、カレールー(中辛・辛口)、調味料、惣菜など
- なかった物:豆腐、納豆、鮮魚、カップ麺、パン
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- 家に買い置きがあったので特に何も買って来なかった。棚に物がない光景を初めて見た。これが回復するのはいつになるんだろう。先が見えないのは不安。
と、一週間の振り返ってみた。長い一週間だった。
電気が来ないという暗さと寒さ。電気がないとファンヒーターも使えず、寒い。いつ復旧するか分からないのは不安。紐を引っ張れば電気がつくのは幸せな事なんだと実感した。
同じ県内で物凄い被害があったなんて、未だに信じられない。物資の援助として箱単位でオムツとか食品とか下着を募集している。けれど家にあるのは1個2個。何も援助できず、もどかしさを感じています。今はだた、節電と節水、不要の運転はしないという事をしています。
ラジオでは安否情報に加え、遺体安置所のお知らせもするようになった。新聞には避難者名簿と共に亡くなった方の名前も載っていた。今まで住んでいた家が一瞬でなくなり、家族ともバラバラになった気持ちは辛いと思う。日に日に死者が増え、今朝の新聞では岩手県で2700人を超えている。そして不明者も増えて行く。喉の奥が痛い。
卒業式、終業式の延期や中止も放送している。ゴミの収集や高速道路、電車の運行情報。今までとは違う生活になった。
まだ私の住む内陸は被害が少ない方。例年に比べて寒い今年は、沿岸でも寒いと思う。自分に出来ることがこれから出てきた場合、何でもしようと思う。いつも行っていた三陸の海に恩返しをしたい。
今回の地震は岩手だけでなく、東北、関東の他にも沢山被害に遭ったと思う。暗くなると止まらないから、自分に言い聞かせる。
暗い顔をしていたら何も明るく行かないので、元気を出して明るく行こう(^-^)♪